コラム「紙と生活」
その紙が私たちのライフスタイルの中でどのような存在なのか、また今後どのようになっていくのかをトレンドやデータを元に様々な視点で考察するコラムです。
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めくるめくワインラベルの世界
2016/08/29
現在、地球上で確認できるブドウは、約3万種。 そのうちの90%が、ワインの原料として使用されています。 最も古いものだと言われているのが、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈に自生していたブドウによって生まれたワイン。 それが地中海を東から西へ渡り、数千年もの時間をかけ、徐々に広まっていきました。 日本でもその歴史は古く、縄文時代にはぶどうを足で踏み、ぶどう酒が作られていたことがわかっています。 現在のように、コルクで栓をしたボトルに詰められるようになったのは、17世紀末の事。 ワイン生産者やワイナリー経営者が、理念や想いをワインに託し、それを視覚で表すためにラベルを作りはじめました。
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涼を呼ぶ道具、うちわ
2016/07/11
古墳時代の遺跡からは、うちわとよく似た形状のものが発見されています。 例えば、顔を隠すことで権威の象徴として用いられていた「さしば」。 中国の僧侶が塵や蠅を払ったという「塵尾(しゅび)」。 私たちがよく知るうちわに近いものが「蒲葵扇(びろうせん)」で、沖縄や九州に自生するヤシ科の植物“びろう”の葉を使ったもので、人や火を仰ぐために使用するものだったようです。 江戸時代に入ると、炊事や暑気払い、虫よけなど、日常に欠かせない道具として庶民にも受け入れらていきます。 多色木版技術が生まれた江戸後期以降は、絵師のキャンバスへと進化を遂げることに。 その題材は、役者絵から美人画、風景画、花鳥画までさまざま。 浮世絵は高いけれど、うちわなら手頃な値段で手にはいると、ファッションアイテムやインテリアとしても人気を博したようです。 竹の組み方や、和紙の違い。 形も角ばったものや丸いもの。 各地で趣向を凝らしたうちわが出来上がっていきます。 日本三大うちわと呼ばれるのが、香川県丸亀市の丸亀うちわ、京都府京都市の京うちわ、千葉県南房総市、館山市の房州うちわとされています。 それらに関しては、取り上げられることが多いこともあり、割愛させていただくとして、今回は、紙の使い方に特徴のある二つのうちわを紹介したいと思います。 江戸時代から提灯つくりが盛んだった岐阜県は、灯りを和紙に透かす提灯の発想を応用し、「水うちわ」というものを生み出しました。 薄く破れやすい雁皮紙(がんぴし)に天然のニスを塗ることで強度を高めます。 すると、光の乱反射が抑えられて、まるで水まんじゅうのような透明感が現れます。 濡れたうちわを扇ぎ、水しぶきを飛ばして楽しむという、風流な遊びもできるとか。 岡山県の武士が江戸時代に考案したという珍しいうちわが撫川(なつかわ )うちわ。 一見普通のうちわに見えるのですが、光にかざすと、鮮やかな絵柄や文字が浮き上がります。 これは「歌継ぎ」と「透かし」の2つの技法によるもの。 一筆書きで俳句を書き、それに合った花鳥風月の絵柄を切り抜いて表現していきます。 うちわは「団扇」という漢字で広く知られますが、古くは「内和」とも書き、その 丸い形状から、家内安全を表す道具だったそうです。 結婚や引越しなど、節目の相 手へのギフトに、今年の夏は粋なうちわを選んでみてはいかがでしょうか。 文・峰典子
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卵からはじまった印画紙の歴史
2016/04/25
印画紙とは、フィルムから現像処理を行うための写真感光紙のこと。 ですから、印画紙の話を始めるにあたって、写真の歴史に触れないわけにはいきません。 そもそも写真はどのように生まれたのでしょうか。 わたしたちの祖先は、洞窟に刻んだプリミティブな壁画にはじまり、宗教画や肖像画のような写実的なものに至るまで、伝達や記録のために絵を描き続けてきました。 しかし、写真が誕生したことで、目で見えるものをそのまま後世に残す事が出来るようになったのです。 小さな穴(ピンホール)を通った光が、外の景色を映すことは、古代から知られていたようです。 紀元前4世紀に生まれたギリシャの哲学者、アリストテレスも 「隙間や穴を通った光が、太陽の丸い形を地面に投影するのはなぜか」と自問していました。 この原理を芸術家が活用しはじめたのは15世紀のこと。 ピンホールをあけた大きな箱の中に画家が入り、穴からはいりこんだ像をもとに、実際の景色そっくりの絵が描けるというものでした。
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奥ゆかしい日本の伝統 ふすまの歴史 (後編)
2016/03/30
貴族のものであったふすまですが、江戸時代後期には、紙の生産技術が向上するのと共に、庶民の家でも普及していきます。 明治21年に建てられた皇居新宮殿は、和洋折衷を大きく打ち出したもので、人々の住宅に対する意識を大きく変化させるきっかけとなりました。 それ以降、洋室と和室を襖で区切るという、いわゆる“昭和の住宅”が日本中で建設されていきます。 構造そのものは、平安時代から現在まで、ほぼ変わらないふすま。 保湿や防音にも優れているのはもちろん、温度調整の機能まで備わっています。 そもそも和紙は呼吸しているため、湿度を整える作用があるのです。 季節によって気温の変化が激しく、湿度も高い日本ですから、その良さを見直したのではないでしょうか。 多種多彩なふすま紙 ふすまに興味を持ってくださった方のために、ふすま紙についてもぜひ紹介させてください。 ふすま紙は、「鳥の子紙」と「織物」の2つに分けることができます。 鳥の子とは雁皮(がんぴ)からつくる和紙の一種で、その名の通り、卵のような淡い黄色をしているもの。 現在では、手漉きと機械漉きをわけるため、手漉き紙を「本鳥の子」、そして機械で漉ったものを「鳥の子」と呼びわけています。 さらに、雁皮の配合率や、漉き込み模様をつけたものなど、鳥の子紙だけとってみても、種類は豊富。 ちなみに、「本鳥の子」は、現在ほとんど作られていないため、とっても高価なのだとか。 一方、織物には、合成繊維を用いた一般家庭用のものと、麻や絹、木綿などの天然素材を織ったものがあります。 これら以外にも、唐紙(木の版で柄をつけたもの)や、銀箔で色をつけたものなど、そのバリエーションの多さに驚かされます。 デザインと機能重視の現代ふすまで「しつらう」 とにかく狭いといわれる日本の住宅で、小スペース化を図れるふすま。 最近は、より柔軟な発想のものが増えてきました。 洋室にも溶け込むよう、表と裏でデザインを変化させたものや、ガラスでできた透明なふすま、耐久性のつよい紙でつくられたもの。 ふすまは、わたしたちの暮らしに合わせて調和していく建具なのです。 行事や季節に合わせ、ふすまで部屋を仕切って暮らしていた平安時代。 人々はこの設営のことを「しつらい」と呼んでいました。 ふすまは、単純な間仕切りとしての役割だけでなく、生活や日本の風土を色濃く反映したものだったことが分かります。 かつて、建築家のブルーノ・タウトがふすまについて書き残した一文を最後に紹介します。 「実際、これ以上単純で、しかも同時にこれ以上優雅であることは、まったく不可能である」 <タウト「永遠なるもの」『日本の家屋と生活』所収、篠田英雄訳、岩波書店>
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間仕切りから芸術へ ふすまの歴史 (前編)
2016/02/24
改めて言うまでもありませんが、「ふすま」とは、木でできた骨組みに、和紙を貼り合わせたもの。 昔は、どの家でも見ることができたふすまも、和室の減少とともに、触れる機会が少なくなってきました。 ふすまの歴史はとても古く、「源氏物語」にも「開きたる障子をいま少しおし開けて、こなたの障子は引きたて給いて」という一文があり、平安時代の貴族たちの間ではすでに馴染み深いものだったことがわかります。 このころの邸宅は寝殿造。 中は柱が並ぶだけで、がらんとした空間でした。 それを季節や行事にあわせて仕切るために使ったのが「ふすま」でした。 そもそも日本古来の建築は、外との間に強固な壁をつくるのではなく、自然と調和しながら変化していく、という考えのもとにありました。 その点ふすまは、暑いときはあけて風を通し、寒ければ小さく仕切ることで暖かくなる。 住むひとや環境に合わせて調整できる、画期的なアイテムでした。
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書いて伝える原稿用紙 (後編) 発展編
2016/01/20
江戸時代後期には、日本で見受けられた原稿用紙。 しかし、文士たちがそれを愛用し、文学の世界に広めていったのはもうすこし後。 先に原稿用紙を活用していたのは、意外にも宮内庁でした。 明治以降に活版印刷が普及すると、几帳面な日本人が考えるのは効率的に字数を数えるにはどうすればいいのか、ということ。 書き手だけでなく、依頼する側にとっても、原価を計算しやすいからです。 後に大蔵大臣、そして総理大臣となる高橋是清(たかはしこれきよ・1854〜1936)は、若干20歳で大蔵省の通訳職に就いていました。 外国の新聞や本を翻訳し、原稿用紙1枚につき50銭をもらっていました。
また、大隈重信も通信省で翻訳のアルバイトをし、原稿用紙を用いたことを自伝で語っています。 -
書いて伝える原稿用紙 (前編) 発明編
2015/12/21
「原稿用紙」と聞くと、もはやノスタルジックとさえ感じてしまう私たち。 夏休みの読書感想文や卒業文集の作文、国語のテスト……。 記憶を掘り起こしてみると、教室に座って白紙の原稿用紙と挌闘する自分の姿さえ、鮮やかによみがえってきそうです。 改めて言うまでもありませんが、原稿用紙とは日本語を綴るためのマス目がはいった用紙のこと。 作家が使うアイテムとしてもよく知られていますが、きょうび、一体どれくらいの人がそれを使っているのでしょうか、余計な心配すらしてしまいます。 パソコンで文章を書くことが当たり前になり、需要は減る一方。それでも、一マス一マスに自らの手で文字という命を吹き込む作業を想うと、いつまでも有り続けて欲しい存在です。 残念ながら、いったい誰の手によって原稿用紙は生まれたのか、はっきりとした事実関係はわかっていません。 しかし、事例はかなり古くから確認できるようです。
いくつか代表的な例を紹介しましょう。 -
世界に広がるORIGAMIアートの世界(後編)
2015/09/15
「ORIGAMI」は今や世界共通の言葉です。 昨年アメリカで開催された国際的な折り紙イベントには、世界中から折り紙作家が集まり、その精巧な作品が大きな話題を呼びました。 近代の折り紙は、リアルさを徹底的に追求しているのが特徴。 90年代に、折り紙独自の計算式に基づいた設計図をつくることが可能になってから、熊の爪先や蛇のウロコに至るまで、細かなディティールを再現できるようになったと言います。
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幼稚園と共にやってきたヨーロッパ折り紙(中編)
2015/08/20
古くから紙を用い、さまざまな形を生み出してきた日本。 誰の手によって、現在のような折り紙が最初に生み出されたのかは不明ですが、室町時代には、伊勢貞丈(いせ・さだたけ、1718-1784 )という人が、『包みの記』という本を発行し23種類の折形を提案しています。 ※折形については当コラムの前編を参照 また、この時代の着物や浮世絵には、折り鶴や宝船などのモチーフが登場しており、折り紙が庶民にも広く知られていたことが分かります。 『包みの記』以外にも折り紙が登場する書物は多く、享保2年(1717 )に発行され た『けいせい折居鶴』という本では、女の子が折り鶴に乗って空高く消えていくというシーンや、寺子屋で折り紙を教えているくだりがあり、子供の遊びとしても伝わっていることを垣間見れます。
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紙を折って形を作る。文字の発明と折り紙の誕生(前編)
2015/07/21
今、これを読んでいる皆さんの手元には、どんな道具が並んでいるのでしょうか。 長い歴史をのぞいてみると、時代や土地に応じた道具が、常に私たち人間を進歩させてきました。 人類が文字を発明した時には、さて、これをどうやって記録として残したらいいのだろうかと、様々な方法が試されたのです。 丈夫な竹を短冊状にカットし繋いだもの。 材料の調達がしやすく、焼けば保存もできる粘土板。 骨や絹布も使われたといいます。
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牛乳パック、デザインの秘密(後編)
2015/06/30
牛乳パックの上部に、半円状の切り込みがあることをご存知でしょうか?何気なく毎日見ているものの、その意味について知っている方は少ないのでは、と思います。 実はこの切り込みは、目の不自由な人に対する目印なのです。 1995年に食品団体が行った調査で、視覚障がい者やお年寄りが紙パック飲料の違いを見分けにくいということがわかり、とりいれられたアイディア。 現在では、国内で生産されるほぼ全ての牛乳パック(成分無調整牛乳に限る)に切り込みを見ることができます。
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おいしさ届ける牛乳パック、100年の歴史(前編)
2015/05/27
人間が牛を家畜とし、搾乳をはじめたのは中東地域が最初だと言われています。およそ八五○○年前のことです。 牧畜が発展するのに伴い、牛乳を飲用するという習慣も世界中に広がっていきます。 街中に牛乳屋が登場したのは15世紀のロンドンのこと、そしてアメリカでも17世紀ごろには牛乳販売が行われていたという記録が残っています。
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紙幣の原料とリサイクル(後編)
2015/05/01
紙幣の歴史について、さらには特殊な印刷技術について学んできましたが、今回は使われている原料についても調べていきましょう。 日本の紙幣は、みつまた(三椏)やマニラ麻を混ぜ、専用の特殊な用紙をつくっています。三椏は日本で古くから和紙の原料として使われてきた植物。 ジンチョウゲ科の落葉低木で、皮から繊維をとって和紙にします。 マニラ麻とはバショウ科の植物でフィリピンなどの熱帯で栽培されています。 約7メートルにも及ぶ背の高さで、バナナの木に似た姿。 特徴はなんといっても軽く丈夫なこと。 さらに耐水性もあるので、船でつかうロープの原料としても愛されています。
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紙幣に隠された7つのスゴイ技術(中編)
2015/04/06
日本銀行が正式に紙幣を発行したのは、1885年のことです。 最初のお札は十円札でした。デザイナーはイタリア人のエドアルド・キヨッソーネ。 彼は印刷屋の家系に生まれ育った版画家で、技術を日本人に伝えるために大隈重信が呼び寄せました。 キヨッソーネは十円札の発行後も日本に永住し、紙幣や切手など500点余りを制作、亡くなるまで日本の印刷史に大きく尽力しました。 余談ですが、教科書でおなじみの西郷清盛の肖像画もキヨッソーネの手によるものなんだとか。
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物々交換からうまれた紙幣の歴史(前編)
2015/03/20
紙幣の歴史の前に、お金がどのように生まれたのか簡単に触れておきましょう。 お金という物が存在しなかった古代では、人々は互いに物を交換することで、必要な物を得ていました。 ただ、いつも欲しいものを相手が持っているとは限らないし、自分も、不要なものを常に用意できる訳ではありません。 そこで物品貨幣と呼ばれるものが誕生します。 価値があって、誰もが欲しがり、保存のきくもの。 布や米、塩などがお金の役目を果たしていました。 やがて人間が金属を生み出すようになると、刀などがそれに加わったといいます。
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毎日届く情報誌 新聞の秘密
2015/02/24
日露戦争をきっかけに新聞業界は大きく拡大を見せます。 各社が競い合い、号外が1日に何度も発行されたとか。 明治30年代には、都市部だけでなく地方でも輪転機が普及したため、ぐんと発行部数が伸びました。 当時は勿論メールもありませんから、記事や写真を伝書鳩にくくりつけ「鳩便」で運搬していました。 新聞社の多い銀座・有楽町界隈では屋上でたくさんの鳩を飼っていたといいます。 新聞に欠かせない四コマ漫画についても触れてみましょう。 アメリカで19世紀に流行っていた風刺画を日本に持ちこんだのは今泉一瓢(いっぴょう)という漫画家。 風刺画ではなく漫画と名付けたのも、さらに四コマという形にしたのも彼なのです。
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石板からはじまる新聞の歴史
2015/01/20
新聞の発生は世界の各地で確認されていますが、その中でも最初に新聞の原型をつくりはじめたのはユリウス・カエサル・ツェペリ(紀元前100-144)だとご存知でしょうか。歴史上に大きく名を残したカエサルですが、ローマの執政官となった際に、議会の議事録として「acta senatus(アクタ・セナトゥス )」と呼ばれる、板に書いた新聞を発行しています。 当時の議会ではきわめて不透明な政治が行われおり、カエサルは悩んでいたといいます。 そこで、一般市民を味方にするべく、新聞を貼り出す形で情報を公開していたのでしょう。
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紙の宝石・蔵書票(後編)
2014/12/25
ここからは、すこし絵柄について触れてみたいと思います。 ヨーロッパで蔵書票が生まれてからしばらくは、宗教的な絵柄、特に天使や聖人、紋章などがほとんどでしたが、庶民に蔵書票が広がるのと同時にモチーフも多様化していきます。
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紙の宝石・蔵書票(前編)
2014/11/11
蔵書票とは「エクスリブリス(EXLIBRIS)=誰それの蔵書から」という意味をもっています。 その名の通り"これは私の本だよ"という事を明らかにするために本に貼る紙片のこと。 その美しさから「紙の宝石」と呼ばれ、収集に夢中になるコレクターも多いのです。 今回はこの、紙の宝石・蔵書票について歴史をひも解いていきます。
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文具からアートまで 進化をとげた付せんの魅力
2013/06/13
付せんとは、メモ書きを一時的に書籍や文書に張り付けるために使用される紙片――とあります。 この付せんの誕生は1968年アメリカ。 科学メーカー3Mの研究員スペンサー・シルバーは、強力な接着剤を開発中にもかかわらず、接着力がとても弱いものを作り出してしまいました。 そして、何につけてもくっつかない接着剤をみた同僚が「本のしおりにしてはどうだろう」と助言したことから、接着力の弱い接着剤の研究が始まったといいます。 約10年後の1977年には試作品が完成。 この試作品が大企業の秘書課に配られ、大好評を得て、1980年に全米で発売されることになりました。 「ポストイット」と命名されたこの付せん。 またたく間に世界に広がり、100ヵ国以上の国で販売されたそうです。