中国より伝わり日本文化として根づいた掛軸~その歴史と文化を振り返る~【前編】
2024/02/14
古くから、日本の和室に飾られている「掛軸(かけじく)」。書や絵などさまざまな種類があり、飾ることによって空間を華やかにしたり引き締めたりと、多様な効果を生みだします。今回は、そんな魅力あふれる掛軸の世界を、前編と後編に分けて紹介します。前編となる本記事では、掛軸の歴史や文化に焦点を当ててみましょう。
もともと掛軸は、飛鳥時代 に中国から伝わったことが始まりだと言われています。そして、当時の掛軸は、美術品ではなく仏教を広めるための道具や礼拝の対象として使われていました。その後、鎌倉時代に入ると、漢詩が書かれた「詩画軸(しがじく)」や、禅宗の高僧が描かれた「頂相(ちんぞう)」などといった掛軸が発達します。宋朝(中国)の表具形式が伝わったのもこの時期です。
鎌倉時代後期~室町時代には、日本の古典的な建築様式の1つである「書院造り」の家が主流になり、建物内には、「床の間」の前身となる「押板(おしいた)」 が造られました。そして、部屋の壁面に描かれた「障壁画(しょうへきが)」に合わせて掛軸もかけられたそうです。この掛軸には、主君の権威や格式を示す意味も込められていため、障壁画に劣らない複雑で豪華なものが選ばれました 。その後、室町時代後期になると、これまで仏教を広めるための道具や礼拝の対象であった掛軸は、芸術作品として注目される ようになります。
時はさらに流れ安土桃山時代に入ると、室町時代から花開いた「茶の湯文化」が、茶人「千利休」の活躍によってさらなる広がりをみせます。ちなみに、お茶の席で、床の間に掛軸を飾る習慣が生まれたのもこの頃です。当時は、茶会のテーマを表す役割も担っていました。
掛軸の種類も、室町時代後期の床の間に飾られていたような煌びやかなものとは対照的に、複雑さは残しつつ質素なデザインの「茶掛(ちゃがけ)」が選ばれるように なります。当時の茶会や茶事を記録した「茶会記」には、掛軸に描かれた絵や書の内容だけでなく、表装に使われた裂地(織物や反物)の色や文様、種類なども細かく記されていた そうです。このことから、当時の茶人が掛軸に強い関心やこだわりをもち、お茶の席に欠かせない道具として認識していたことが読み取れるのではないでしょうか。
ちなみに、場所によって相応しい茶掛は異なります。原則として、茶室には禅宗の僧侶が書いた「墨蹟(ぼくせき)」を飾ることが一般的です。一方で、お客様が茶室の準備が整うまで待つ場所である「待合」の掛軸には、細かい決まりはありません。季節に合った絵や書、趣味掛けなどを飾る ことが多いといわれています。
江戸時代になると、武家や貴族、町人など幅広い身分の人々が、節句ごとに掛軸を選んで飾り、四季折々の変化を楽しみました。中期には、画家ではなく、詩文や書画をたしなむ「文人(ぶんじん)」が描いた「文人画」が注目を浴びます。またそれをきっかけに、日本で発達した表具形式である「大和表具(表装)」と、中国から伝来した「文人表具(表装)」の技術が磨かれ、さまざまな作品が生まれます。
そして、多様な西洋文化が急速に広まり始めた明治時代以降。日本の画家たちは西洋画の影響を受け、競い合いながら技術を磨きます。絵は遠近法が用いられたり、明るく豊かな色あい のものが増えたりしました。同時に、掛軸の表装も変化を遂げ、これまでとは異なる系統のものが登場します。所蔵者や画家など、表装に関わる人々の思想や考え、こだわりなどが明確に表現されるようになったのです。時には、絵や書よりも表装にかける金額の方が高くなる場合もありました。 このように掛軸は、その時代の文化や特徴に合わせて姿を変えてきたのです。
しかし近年は、和室のない住宅が増え、掛軸を飾る機会も以前より減ってしまいました。もしかすると、史資料館や美術館でしか見たことがないという方もいるでしょう。掛軸は、日本の歴史と文化を表現した貴重なものです。見る機会があった場合は、その表装や本紙(作品部分)に注目してみてください。作られた時代の面影を、感じることができるでしょう。
今回は、掛軸の歴史や文化に焦点を当ててお伝えしました。どのような流れを経て、現代に辿り着いたのかを知ることで、多少なりとも掛軸に対する見方が変わったのではないでしょうか。さて、後編となる次回は、掛軸がどのように作られているのか、仕立てと表装(表具)に注目します。
文・鶴田有紀
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〈参考文献〉
・『詳説 書画の装い 掛軸をつくる』薮田夏秋 著|日貿出版社
・『表装ものがたり 書画を彩る名脇役を知る』濱村 繭衣子 著|淡交社